カニが啓示してくれたもの
中華食品スーパーの魚介類セクションに、1パウンド$2.85と記された水槽があった。足かせをはめられた一匹のカニが、水槽をはい上がり、隣の水槽に入ろうと全力を尽くしていた。隣の水槽には、1パウンド$4.35と記されていた。かわいそうなカニ。そして何と言う不屈な精神。何があっても這い上がろうとしている。私の頬に涙がつたった。
これは、数日前にジョークとして受け取ったメールだった。読んだ時は笑ったが、同時に何となく心が沈んだ。
海底の自由な生活から一転、スーパーの小さな水槽に幽閉され、情け容赦のない運命が彼らを待っている。この哀れな運命にもかかわらず、 負け戦が明らかなこのカニは、自分の不安定な状況には全く気付いておらず、優れたカニのために特別に設けられた高価なカニの水槽に入ることだけに気持ちを集中させている。たとえ成功したとしても、その運命が変わることがあるのだろうか。
立ち止まって考えてみると、私を含む多くの人々は、このカニのように自分をだましながら生きているのではないだろうか。
多くの人は、名誉や利益のことを考えたり、恋愛やロマンスで動揺しているのではないだろうか?様々な感情や欲望から心を痛めて疲労しているのではないだろうか?利益や名誉や愛情を求め、わずか数十年の間、しがみついていることだけが、人生の本当の意味なのだろうか、と夜中に思いをはせることはないだろうか?
夜の静けさの中で、空 、水平線から広がる星の天蓋を見上げ 、無限の天上で静かに輝く星々を眺めると、自分が小さくて無知なカニのように感じてしまう。「人生が長いか短いかなど誰が知るだろう。杯をあげ、歌を歌おう。朝露が人生のように、日々は過ぎ去る」と曹操がため息をついたように、人の一生は苦くて短い。多くの人は、人生は水の流れのようで二度と戻ることがないから、大切にすべきだと語る。しかし、こう語る時、人生の本当の意味が分かっているのだろうか。この世に来た本当の目的は何だろうか。
人によって答えは違うだろう。常に自分の道徳基準を高め、自分の精神を浄化するように努めることだけが、人生の真の意味の実現を可能にするというのが私の回答だ。
神韻芸術団の一員として踊ったわずかの期間で、私の精神は中国の伝統文化の壮麗さにどっぷりと浸かった。その深遠な内涵に、私はすっかり魅了された。中国五千年の荘厳な舞台の魔法にかかったかのようで、舞台に繰り広げられるストーリーの流れに引き潮のように洗い流され、ドラマを通して輝く歴史上の優れた人物の喜びや悲しみを感じ取る。孔子や孟子のような道徳を修めた高貴な賢人に感嘆し、 関羽 や飛岳のような将軍の揺るがし難い忠誠に畏怖の念を感じる。 諸葛亮や荀彧などの優れた戦略家を畏敬せざるをえない。中国の古代文明は、柔らかい雨のように、私の知的、道徳的、情的な渇きを潤し、高尚な精神性でさりげなく私を癒してくれる。
この神聖な舞台に上がるということ自体が、私の魂を高揚させ浄化させる過程であるということは、さらに喜ばしい。神韻の舞台は神伝文化とされる中国文明の礎であるからだ。菩薩や仙女の役を演じる時、仏や神々が自分の脇で力を与えてくれる、と何度も感じた。このような瞬間、私の心は 感謝と畏怖の言い尽くし難い気持ちに襲われ、目頭が熱くなる。
拍手喝采でカーテンコールを受けダンサーが舞台に出る時が、私にとって至福の瞬間だ。観客の満足した笑顔を見て、心からの拍手を耳にした時、公演の疲れ、過密スケジュール、数ヶ月間のせわしない移動などの苦労が一瞬にして吹き飛ばされる。喜びを人に与えられることは、これほどまでに美しいことなのだ。
精神を浄化し、他人に最も美しい 最高のものを与えることが、生きる意味だということに 神韻は気付かせてくれた。自分の利益のために盲目的に良心を裏切ってしまうことは、人生を浪費し、将来、悔いを残すことになると思う。人の一生は一世紀にも満たないのだから。
人生の意味とは何なのかと考えているのなら、公演の鑑賞を是非お勧めしたい。なんらかの閃きを得てもらえるだろ。
ウ・シン
神韻巡回芸術団プリンシパル・ダンサー
2011年3月5日